sincere’s HISTORY
フィリピンから帰国したごみ
プロローグ
今回の事件で、結局問題の本質が追及されなかったことを重く受け止め、弊社の代表取締役社長(当時)である中西が業界誌(2000年5月5日発売「INDUST」)に発表した論文です。ここに『なにが問題だったのか?』が集約されています。(株)シンシアでは、産業廃棄物処理業の信頼回復のためにも、今後もこうした形で真摯に訴えかけていきたいと考えています。
月刊INDUST「廃棄処理の総合専門誌(いんだすと)」
社団法人全国廃棄物連合会発行
● INDUST誌の許可を得てホームページに掲載しています。
1.フィリピンから帰ってきたごみ
「有害廃棄物、それも感染性医療系廃棄物が大量に混入されているらしい…」フィリピンの世論が許しがたい環境犯罪として新聞などで大きく取上げ、日本政府が腰を上げた“フィリピンへ輸出されたごみ”について私たちが耳にした第一報だった。
始まりは、フィリピンに着いたものの、引き取り手が現れなかった122個のコンテナだった。当局が開封したところ、マニフェスト上は、再生可能な有価物であるはずの中身が、医療系廃棄物を含む廃棄物だったのだ。これを受けて昨年12月、関係省庁が合同調査チームを派遣し、中から紙おむつなどを発見、バーゼル条約およびバーゼル法(国内法)違反を確認した。以後の流れは新聞等が大きく報じた通りである。
当社は事件が日本で報じられた直後、まず環境庁から適正処理の受託についての打診を受けた。政府はおそらくこの時点から当該業者には回収も適正処理も不可能と予見し、行政代執行を想定していたのだろう。実際、当該業者は倒産し、経営責任者は逃走、回収も処理もできなかった。
年が明けて、政府はまず日本に戻すための運搬について代執行を行い、1月11日、約2,700トン/コンテナ122個分のごみが、東京大井埠頭へ帰ってきた。
2.代執行、そして業務受託
当社はまず、代執行による保管を受託、その後、19日付で各処理場(東京大田、川崎、横浜)への運搬のすべてと、約3分の1にあたる40コンテナ分の適正処理を受託した。 民間企業では唯一だった。
だが正直な話、無条件で即受けたわけではない。確かに火急の判断を求められる中ではあったが数回にわたって社内外と議論した。
なぜか。大きな理由として、ビニールで梱包されコンテナにつめられているゴミの中身が“まったくわからない”という問題があった。当社には最新の公害防止機能を備えた焼却溶融施設がある。最終的に厚生省があげた委託理由にも、最新の環境対策技術を備えた民間唯一の処理施設であることへの高い評価があった。実際、日本の民間企業で唯一、焼却炉だけでなく溶融炉も備え、バグフィルタのほか施設の3分の2を占める環境対策設備によってダイオキシン対策も万全である。
しかし、確かに環境負荷を最小限にするには最新の設備が前提だが、それだけで可能になるわけではない。高い運用能力も大きな要素である。ゴミの中身にあわせて炉をオペレーションすることが重要だ。炉の状態に合わせて廃棄物ピットにあるさまざまな性状の廃棄物をバランスよく投入しなければならない。
つまり、ゴミの中身がわからない、ということは、分別の必要の有無も含めて、焼却にかかる時間や設備への負荷の度合いを事前に予測できないということであり、環境負荷も予測が難しくなる。なおかつ、なにが入っているかわからないということは、作業にあたる人員への危険も予測不可能であり、大きなリスクだった。
しかし一方に、この処理こそは、環境負荷を最小限に抑え、適正に安全に、民間企業こそがおこなわなければならないという意識も強くあった。
未整備な法をくぐり“ゴミ以外のなにものでもないゴミ”を、まさに他人の庭に捨てたのは民間の廃棄物処理業者である。事件が重なり、日ごとに増殖する産業廃棄物処理という仕事への負のイメージを、規模の違いこそあれ同業である私たちが払拭しなければ、このまま廃棄物処理業への意識は変わらない。安全に適正に処理ができるのは決して行政だけではないことも認められない。
議論の結果、私たちは処理を受託することにした。この受託のゴールに、廃棄物処理に対する意識変革への第一歩と世論への問題提起を置いたのだ。 そして、全作業を終了した今、その意義は大きかったと感じている。しかし、同時に今回の事件が投げかけた根源的な問題があまりにもなおざりにされたことへの無力感もいなめずにいる。
3.根源的問題がなぜ消えてしまったのか
現実に我々がリスクと感じたゴミの中身は、その7~8割がいわゆる産業廃棄物、解体工事後の建設廃棄物が中心だった。医療系廃棄物は確かに認められたが「感染性の高い医療系廃棄物が大量に混入」という状況ではなかった。 しかしながら、センセーションを求めるマスコミ報道は、「おそろしい感染性の高い医療系廃棄物の輸出」に集約されてしまった。
そこで私たちは聞かずにはいられないと感じていた。仮に百歩譲って多くが感染性産業廃棄物だったとしても具体的に感染性の高い廃棄物とはなにを指すと考えて伝えているのか?果たしてその判断基準でいいのか?さらに事実と照らすなら、結果として感染性の高い廃棄物ではなかったわけだが、その場合ここまで大きな問題にはしないつもりなのか?今回は有価物と称して輸出されたわけだが、どこからどうみても再生のしようのない“ゴミ”がなぜ、資源として輸出されたのか?さらに、その根底にあるリサイクルそのものへの考え方に問題はないのか?
誤解を制すためにはっきりと述べておくが、決して当該業者を擁護するために言うのではない。むしろ今回、ある種のミスリードによって潜在的な問題、違法性のありか、さらに廃棄物行政のあり方そのもの=廃棄物関連法の問題点、などを社会に問う画期的な機会を逸してしまったことを指摘しておきたいのである。
4.廃棄物の定義と分類
言うまでもないが、中身が建廃中心であったとしても、大問題であり、いわば環境犯罪であることに変わりはない。むしろ、今回この現実をしっかり認識したなら、日本の廃棄物行政の最も大きな課題を具体的に議論することができただろう。それは、廃棄物の定義と分類の問題だ。
まず、廃棄物と有価物の区分であるが、現在日本では、有価物とする(有価物と偽ることも含めて)ことによって、廃棄物規制を免れるため、まさに今回のような不正輸出や、不法投棄、不適正処理などが生じている。今回のようにコンクリート殻、壁材、床材、トイレの便座に至るまで、ひとたび有価物と偽ることに成功(!)すれば、平然と海を渡ることになるわけだ。確かに極端な例かもしれないが、程度の差こそあれ、廃棄物の定義に非常に主観的な判断が許されている限り、抜け道は永遠に閉ざされないことになる。
それはそもそも分類の仕方に、性状による分類と、処理責任(排出者)による分類が混在していることに拠る。わかりやすく、若干極端な例を示めそう。例えば、注射後、止血につかった脱脂綿を自宅で捨てれば家庭ゴミになり、自治体で紙くずなどといっしょに焼却処理される。しかし、同じゴミが病院の病室から出れば、感染性産業廃棄物となる。さらに同じ病院でも食堂で捨てられれば事業系一般廃棄物として処理されるかもしれない。厳密には感染性の医療系廃棄物であろう。しかし、まったく同じそのゴミが、あるときは一般廃棄物になり、産業廃棄物になり、医療系廃棄物にもなるのである。
今回フィリピンへ不正輸出された廃棄物の中で“感染性産業廃棄物”とされた紙おむつにしても、その位置付けはいたってあいまいである。自治体によっては、一般廃棄物として扱われたり、産業廃棄物とされたり、感染性産業廃棄物とされている。
今回フィリピンへ輸出されたのは、そもそも有価物にはなりえない廃棄物である。おそらく産業廃棄物以外のなにものでもないだろう。しかし、法律が事実上許してしまっている主観的な判断によって、資源とされ有価物として取引された。まさに、多くが指摘しながらなかなか改善されない、廃棄物の定義と分類の問題の一端が如実に現れた例だった。
言い尽くされているのかもしれないが、もし、今後二度とこのような問題を起こさないためには、少なくとも廃棄物の区分はその特性によって、客観性を担保しながら行わなければならない。そのまま再使用するもの、リサイクルできるもの、したほうがいいもの、有害なもの、その程度まで、万人が同様に区別できる基準への改正が必要だ。
周知のことであるから、蛇足なのかもしれないが、先進国の中でもあいまいな分類だということを付け加えておこう。
例えば、今回国際社会で問題視されたバーゼル条約違反だが、そこにもここまで示してきた問題が如実にあらわれていた。バーゼル条約が定義する医療系廃棄物と、わが国の廃掃法での感染性産業廃棄物には大きなずれがあるのだ。マスコミはこの根源的な問題にも触れることなく、感染性産業廃棄物=医療系として走り、日本の認識が世界とどう違うのか、その本質に迫ることはなかった。
もはや、廃棄物を排出者が誰か?で分類するのはナンセンスだ。有害か否かで分類すること、それが不可欠である。
5.有価物とリサイクルを考える
さらに、その区分を行うとき考えなければならないのが、リサイクルできるものと、将来的にはリサイクルしたほうがいいであろうものの違いだ。現実を直視し、ここには言葉以上の大きな違いがあると認識すべきである。
今年2000年を“循環型社会元年”と位置づける政府が、改正あるいは新しく制定しようとしている法律(基本法と5法)には、原則として3つのRが貫かれている。
ゴミの量そのものを減らすリデュース、再使用するリユース、そしてリサイクルである。
このうち、リデユースには異論はまったくない。またリターナブルびんのようなリユースも、推進すべきであろう。
しかし、リサイクルについて私は、冷静に見ていくべきだと考えている。単純なリサイクル万能主義、リサイクル至上主義には、今この状況の中では、あえて警鐘をならしておきたい。
なぜか、答は明解である。適正な廃棄物処理業とは、すなわち環境保全事業だという信念の下、なんのためのリサイクルか?という問いに答えたいからだ。
それは環境への負荷を最小限にするためではないのか?であるならば、やはり、LCA(ライフサイクルアセスメント)を度外視はできない。例えば、すでに山積みとなったペットボトルのリサイクルを考えてみて欲しい。いったいどのくらいのエネルギーが必要なのか?特に限りある化石燃料をどのくらい消費するのか?そのことが次世代にどのような影響を与えるのか?なによりも、環境負荷はどの程度なのか?トータルで考えたときに、はたして、本来の目的が成し遂げられているだろうか?無論、だからリサイクルは考える必要がないとは言わない。リサイクルするなら、こうしたことをすべて考慮した上で、リサイクルがベストと判断した時に限定すべきだということだ。さらに同じリサイクルでも、サーマルか?マテリアルか?も厳密に判断すべきであろう。そして、リサイクルより、むしろ適正処理の方が、はるかに“地球にやさしい”という現実もあり得ることを認識すべきだ。
現在進められている法改正(新法含む)では、排出者つまり事業者にリサイクルを義務付ければすべてリサイクルができ、廃棄物問題が解決するかのような短絡的な制度設計も見られる。しかし、現状を鑑みれば、それはまだまだ幻想の域を出ず、決して万能ではない事がわかるはずだ。むしろ、適正処理とはなにか?環境負荷を最小限にし、みずからの生活の安全を担保しながら、有限の地球の期限を少しでも先延ばしにするためには、なにをすべきか?どの選択が最も有効か、的確に判断することが急務ではないだろうか。
リサイクルがどんな場合も最善で、焼却などの適正処理は次善策にすぎないという発想ではなく、最も負荷をかけない方法を、常にベストな選択を追及すべきであろう。当然、そのためには厚木基地の問題のように、アメリカの外圧を待つまでもなく、ダイオキシン類などを含む環境負荷の規制は徹底的に厳しくすべきであり、民であろうと、官であろうと、クリアできない者は処罰すべきである。言うまでもないが、技術開発もより進めるべきだ。
6.不可能を可能に
なぜ、あえてこのようなことを言うのか。話をフィリピンから戻ってきたごみに戻そう。梱包をあけてみると、いわゆる産業廃棄物が9割をしめていたゴミは、ほぼすべてを焼却処理した。私たちの施設でも、通常の通り、焼却処理し、その廃熱を電力としてサーマルリサイクルし、発生した焼却灰・飛灰は溶融によって溶融スラグとしてマテリアルリサイクルし、適正処理を行った。
私たちの施設での焼却・溶融作業は1月27日から6日まで行ったが、期間中ダイオキシン類の排出濃度を分析測定した。先にも述べたとおり、内容のはっきりしないゴミを焼却するリスクを意識しての判断だった。結果は、ダイオキシン類について言えば、0.0077ng-TEQ/m3N。新設炉の排出規制値は0.1ng-TEQ/m3Nである。
廃棄物処理業者による悪しき歴史が、環境への負荷を最小限にした焼却を中心とする適正処理は不可能、特に民間には不可能という認識を植え付けてしまったのだろうが、それは決して事実ではない。
7.自己責任・自己負担
「循環型社会形成の推進は、人類の存続と繁栄が自然の循環の範囲内において人類以外の生物との共生によって図られることにかんがみ、すべての人の公平な役割分担の下に、環境から得られる資源等を用いた人間の活動を、自然の循環を維持し、損なわず、及び回復しつつ、より効果的に行うことができる社会経済構造への転換を促し、もって環境への負荷の少ない持続可能な社会を形成することを基本として行われるものとする。」
これは、今国会に上程(3月17日現在)された『循環型社会形成推進基本法案』の基本理念である。異論はないだろう。しかし、実現にはコストがかかるという事実だけはつけ加えておきたい。
本論で述べてきたように、廃棄物の定義を明確にし、客観性をもった分類を可能にし、ベストな処理方法を選択し、実現していくには、かならず今以上のコストがかかる。民間の廃棄物処理業者だから言うのではない。
例えば、今後ERR(拡大生産者責任)が今以上に問われ、製品そのものに環境コストまでが含まれるようになるとすれば、私たちひとりひとりがそのことをポジティブに受け入れることが前提条件となるだろう。ライフスタイルとして環境への配慮にコストを払うことを是とするということだ。それはいわゆる商品についてだけではない。例えば、医療機関で、適正な(もちろん安全な)廃棄物処理のために、利用者に一律10円の負担を課すようなところがでてきたら、どうだろうか?そうしたことを当然として受け止めることができるだろうか。しかしそれが、環境に負荷をかけない適正処理を実現するために不可欠な条件なのだ。排出者は、個人、一人一人である。誤解を恐れずに言えば、生産者の責任とは、消費者、利用者の責任なのだ。
適正・安全な処理には施設費も含め、手間と、費用がかかるということを、いかにしてすべての人が正確に知り、ポジティブに認めるか?あるいは、私たち廃棄物処理業者が認知させていくか?
原則は自己責任であり、自己負担である。そのことが、結果として官民問わずすべての廃棄物処理を監視し、淘汰するということをあらゆる立場の人々の共通認識にしていくことだ。フィリピンから戻ってきたゴミが日本という国に投げかけた根源的な問題もそこにあった。
そして、そこにこそ、共生が可能な社会へのパスポートがあるのではないだろうか。